私は、姿のないお葬式に参列したことがあります。姿のないお葬式、それは、遺体が見つからなかったということを表します。私の叔父は、漁師でした。海が大好きな叔父で、時化て漁に出られない時でも、海を見に行くような人でした。一年のうち、何日も、何ヶ月も、家にいないなんてことは当たり前で、魚を追って、地元の漁場以外にも船を走らせるような人でした。そんな叔父のことが、私は大好きでした。ある冬の時期、時化て中々漁に出られない日が続いていましたが、叔父は我慢できず、少しくらいの時化なら大丈夫と、船を出しました。そのまま、叔父は帰ってきませんでした。いつか、帰ってくると信じて、待ち続けました。それでも、叔父は帰ってきませんでした。そして、けじめをつけるために、親戚一同で、姿のないお葬式を行うことになりました。遺骨は、もちろんありません。もしかしたら生きているのではないかという気持ちもあります。それでも、一般的なお葬式のように、淡々と進められていきました。けじめをつけなければならない気持ちと、遺骨がないから実感が沸かない気持ちと、混じり合っていました。もう二度と、姿のないお葬式には参列したくありません。